タイタニックのクルーたち
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構成:1.1873年〜1900年:生い立ち〜航海へ
:2.1900年〜1907年:ホワイト・ライン・スター社〜上級航海士
:3.1907年〜1912年:結婚、最新船での経験、そしてタイタニックへ…
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特集:マードックの家
特集:マードックの手紙
特集:マードックの遺品
1.(1)家族
後にタイタニックの一等航海士となるウィリアム・マクマスター・マードックは、1873年2月28日、スコットランド、ダルビィーティ、バリーヒルの街に、サミュエル(2)・マードックとジェーン(ジェニー)夫婦の六人兄弟の第四子(次男)として生まれました。
父サミュエル(2)は、船乗りで、キャプテンを勤めていました。マードックの一族は、船乗りの家系でした。大小さまざまな船のキャプテン、あるいは、航海士を送り出しました。
父サミュエル 生家(バリーヒル)
祖父のサミュエル(1)・マードックは、靴製造業を営み、成功しました。
サミュエル(1)の二人の息子は、家業を継ぎ、残りの三人、ジェームス、サミュエル(2)、ウィリアム(2) は海へ・・・ ジェームスの三人の息子もみな、キャプテンになりました。
海での遭難死が珍しくなかったこの時代において、マードック家では、各世代で、少なくとも一人は、家名を継ぎ(すなわち陸上での職業に就く)、残されたもの(女性、子供)の面倒を見るという事が、家族のルールとなっていました。子供の頃住んでいた家(参照:マードックの家)
ウィリアムの家族は、長男のジェームス(2)は薬剤師に、彼と仲の良かった妹のマーガレット(愛称ペグ)は、エジンバラ大学の修士課程を卒業し学校の校長に、弟のサミュエル(3) は貿易商人として成功しました。サミュエル(3)の息子、サミュエル(4)(ウィリアムの甥)は、現在、ダルビィーティの街で、健在です(80)。[註:欧米では、名前を親から子へ受け継ぐ習慣があり、()内は識別の為の番号です。]
ウィリアムは、小学校から高校まで、ダルビーティで過ごしました。
ウィリアムと姉アグネス(1890)
マードック一族にとって、1901年からの12年間は、とても辛いものでした。
1901年、ジェームスの息子(すなわち、ウィリアムのいとこ)、キャプテン・ジョン・マードックの死、1906年、おじのウィリアム・マードックの死、1907年、おじのジョン・マードック(一等航海士、アングロ・アメリカン社'Alcides') の死、同年、おばの夫キャプテン・J・T・サバートも、海で亡くなっています。
1.(2)1878年〜1900年
ウィリアムは故郷の街ダルビーティで、1887年、高校(Dalbeattie High School)を卒業しました。
勤勉であった彼の学業を記念して、1912年、マードック・メモリアル・プライズが設立されました。これは同高において、毎年優秀な成績をおさめた学生に対して、特別に授与されるものです。
ダルビーティ高校(1890)
高校卒業後の1987年から1892年までの5年間、ウィリアムはWilliam Joyce社(リバプール)にて、航海士訓練生として過ごしました。 1891年に、Second Mate's Certificate(二等航海士資格)にパスしています。実習生として、南アメリカ西海岸をまわる’Charles Cosworth’に乗りました。
その後、1992年から1995年の間、父キャプテン・サミュエル・マードックがAlexander Rae商船商会(リバプール)に雇われたのに伴って、ウィリアムは二等航海士として父のもとで働いていたようです。(帆船’Iquique’1,941トン) 父のもとでの航海は厳しいものだったのでしょうが、彼は自分自身の成功にむけて、この経験を生かすことを決心します。
1896年、Extra Master's Certificate(特別船長資格)をリバプールにて取得(免許番号No.025780)しました。
1896年から1901年までの経歴は、断片的に残っているだけですが、船舶記録によれば、1987年から1899年の間は、J.Joyce社のスチール帆船'Lydgate'(2,534トン)に一等航海士として乗船していました。’Lydgate’は、ニューヨーク〜上海間を運航していました。当時の商船は、木製の帆船、スチール(鋼鉄製)の帆船、蒸気を動力として動く汽船などがありました。帆船は帆をはるマストが、蒸気汽船には煙突(funnel)がついています。帆と蒸気を併用している船もありました。当時、次々と建造された新型商船は蒸気汽船で、各社がその大きさ、速さ、豪華さを競い合っていました。大型商船の航海士が、トップクラスのキャリアであるということは言うまでもありません。
ウィリアムの、汽船の航海士としてのチャンスは、1899年に訪れたようです。
1899年から、ボーア戦争(イギリスの、南アフリカ、トランスバール・オレンジ両国に対する戦争。1902年終結)が起こり、イギリスはカナダやオーストラリアを含めた数十万の兵力を動員しました。 ’Iquique’は、海軍輸送船として使われ、これをチャーターしたのが、Oceanic Steam Navigation 社、あるいは イズメイ氏(ホワイト・スター社:タイタニックの所有会社)の関連会社だったようです。ウィリアムは、’Iquique’に、一等航海士として再び乗船し、 Royal Naval Reserve(英国海軍予備役)のLieutenat(大尉)として経験を積みました。これがきっかけとなり、ウィリアムは、ホワイト・スター社の二等航海士としての切符を手に入れるのです。
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2.1900年〜1907年:ホワイト・ライン・スター社〜上級航海士
2.(1)ホワイト・ライン・スター社へ
世界最大の保険会社ロイズの記録によれば、ウィリアム・マードックは1900年から’Medic’(12,200トン、ツイン・スクリュー、速度13.5ノット、リバプール〜オーストラリア間)に二等航海士として乗船しています。(1899年の’Medic’の処女航海から乗船していた可能性もあります。) そしてこの’Medic’で、チャールズ・ハーバート・ライトラーに出会っています。(ライトラーは四等航海士)デッキ・クルーの中にマードックとライトラーが一緒に写っている写真が残されています。 ’Medic’乗船中のクルー達のサイン(日付:1990月9月9日)と、マードックの名前と詩が書かれた札もあります(日付:1990月9月10日)。’Whatever obstacles control、
Go on、true heart、
thou'lt reach the goal.’この詩はスコットランド人の作家ジョン・ヘンリー・マーキーによるものです。この作家は’The Anarchist’の著者で、船の士官達が通常 読む本の種類としては異色で、マードックの「読書好き」が幅広いものだった事をうかがわせます。
1901年からは’Runic’に二等航海士として乗船、リバプール〜オーストラリアのフリーマントル及びシドニー間を2回、1902年には南アフリカ航路とオーストラリア航路、1903年2月にオーアストラリア航路を勤めました。
1903年頃’Medic’あるいは’Runic’に乗船中のオーストラリアへの航海で、ウィリアムはニュージーランドの教師エイダ・フローレンス(27歳)と出会います。エイダは美しさと陽気さを兼ね備えた活発な女性で、ウィリアム・マードックと手紙によるやりとりが始まります。 [同じ頃、四等航海士を勤めていたライトラーも、同じ’Medic’船上で出会ったシルビアと結婚しています。] 下は、航海士の制服に身をつつんだウィリアム(27歳頃’Medic’乗船中)と、エイダ(24歳頃)の写真です。
マードックとエイダは1907年、結婚しました。
1900年頃の、エイダとウィリアム(’Medic’)
2.(2)北大西洋航路
1903年6月25日、ウィリアム・マードックはついに念願の北大西洋航路の仕事に就きます。’Arabic’(15,801トン、16ノット)で二等航海士を勤めました。この船はホワイト・ライン・スター社所有の最大の客船ではありませんが、これは彼の次の目標となります。
’Arabic’は8月18日、11月24日及び12月29日、リバープルを出発してニューヨークに向かいました。このうちの一回の航海中、 ’Arabic’は危うく衝突事故をおこすところでした。
見張りが突然左舷前方に別の船の灯りをみつけ、ブリッジの航海士長フォックスに報告。彼は操舵室に駆け込み、操舵員に’port the helm’と命令、これは舵を右舷に向かって操舵する意味である。船が方向を変えようとした時、その帆船が’Arabic’の中央に向かってきて衝突しそうになった。
ミスに気が付いたマードックは直ちに操舵室に飛び込み、いきなり操舵員の手を払いのけ自ら舵を取り、コースを戻して衝突を回避した。それから、ビックリしている操舵員に操舵輪を返し、こう言った。
「ああ、もう大丈夫だ。」
彼の素早い判断と迅速な行動で、船は衝突の危機をまぬがれました。しかしこれは、明らかに上司である航海士長の命令に対して直接「命令取り消し」を意味するもので、彼は解任の危険を覚悟で行動したとも言えます。当時は今以上に船長の乗客、乗組員に対する権限が絶大なものでした。一般社会においてもその社会的地位は高く、海軍予備役としての地位もあり、船においては船長を頂点にピラミッド型の階級組織があったわけです。それだけに、上下関係は厳しいものでした。
この一件で船長バートラム・ヘイズはマードックにさらにあつい信頼をよせるようになりました。一方、フォックス航海士長は意気消沈し、ヘイズ船長は部下の航海士達の統率をとるために心配りをしなければなりませんでした。
1904年は、’Celtic’(21,000トン、速度16ノット、リバプール〜ニューヨーク間)に8ヶ月間乗船、その年の秋に2ヶ月間’Germanic’(5000トン、速度15ノット)に乗船しました。この’Germanic’は後にドミニオン・ライン社に売却され移民輸送船として使われました。1950年(製造後75年後)、魚雷による転覆事故で沈没するまで長い間使われていました。
1905年1月28日から、マードックは’Oceanic’(17,800トン、ツイン・スクリュー、速度19ノット)で二等航海士を勤めます。 11回の航海の後、1906年2月に’Cedric’(21,000トン、ツイン・スクリュー、速度16ノット)に一等航海士として乗船します。そして再び二等航海士として’Oceanic’へ。ホワイト・ライン・スター社においては、上級船長達が必要と感じた場合に特定の航海士を自分の船(配下)におく事ができた為のいわば「引き抜き」で、降格というわけではありません。 ’Oceanic’では二等航海士を3ヶ月勤めた後、7月3日から一等航海士へ昇進しています。
3.1907年〜1912年:結婚、最新船での経験、そしてタイタニックへ…
3.(1)結婚
1907年9月2日、ウィリアム・マクマスター・マードックとエイダ・フローレンスは結婚しました。ホワイト・ライン・スター社はこの年にリバプールからサウサンプトンに移転しています。これは国内と大陸からの乗客を乗せる(フランス・シェルブール)便宜上の理由で、サウサンプトンがイギリスの主要港となってきていたからです。
二人はウィリアム・ジェームス・ハンナとエリザベス・ハンナ夫妻の介添えで、サウサンプトンのセント・デニーズ教会で式を挙げました。
結婚した頃の二人(1907年)
マードックは’Adriatic’(リバプール〜ニューヨーク間)に一等航海士として9月23日から乗船しています。一方エイダは、新居のアレンジメントにいそしんでいました。サウサンプトン、ベルモント・ロード94番地のこの家は、現在も残っています。(現在は116番地) この家は1908年にエイダの名義になりましたが、 1909年再びウィリアムの名義になっています。エイダは32歳で結婚していますが、残念な事に二人は子供に恵まれませんでした。ウィリアムが家族に宛てた手紙などからは、彼がこの事を気にしていた様子はありません。
エイダがウィリアムとの結婚に同意した事は、当時の交通事情(ニュージーランドとスコットランド)を考え合わせると、とても勇気のいる事だったでしょう。 ウィリアムは少なくとも一度、彼の故郷のスコットランドにエイダを連れていき、家族に紹介しています。そしてウィリアムと特に仲の良かった妹のペグは、エイダと実の姉妹のように親交を深め、サウサンプトンのエイダの家を訪れていたようです。
セント・デニーズ教会と、新居ベルモント・ロード94番地
当時は仕事をしていた女性は結婚すると、夫や家族のために仕事をやめるのが当たり前の時代でした。また当時の家庭の主婦の仕事は、現在よりもずっと煩雑で大変なものでした。乾燥機はもちろん洗濯機はなし、電気掃除機はなし、冷凍庫もありません。しかしエネルギッシュなエイダは教師の仕事を続けていました。仕事柄しばらく海へ出ているウィリアムはこれに賛成しました。エイダの意志を尊重した彼は愛情深く包容力があり、そして二人は時代を先取りした感覚のカップルであったことがうかがえます。
結婚によって、ウィリアムに小さな変化が現れます、それは口ひげ。後の彼の写真を見ると、数年来あった口ひげが無くなっています。これは、エイダの影響でしょうか?1910年 一等航海士のマードック
3.(2)オリンピックそしてタイタニックへ
1911年5月ホワイト・ライン・スター社の新しい豪華客船オリンピックが華々しく完成しました。 45,000トン、速度21ノットのこの船はライバル会社キューナードに対抗して作られ、船の大きさは世界最大、速さではモーリタニアに及びませんが、贅沢さ、豪華さを売り物にした巨大船舶でした。ホワイト・ライン・スター社はこの船のために経験豊かな乗組員を厳選、スミス船長は航海士長としてヘンリー・ティング・ワイルドを、一等航海士としてウィリアム・マクマスター・マードックを、事務長としてヘンリー・W・マクエルロイを選びました。6月14日、オリンピックはニューヨークに向けて処女航海に出発、社長のジェームス・ブルース・イズメイと、造船会社ハーランド・アンド・ウルフ社の主任設計士のトーマス・アンドリューズも乗船しました。
オリンピックは5回目の航海で、サウサンプトン港で海軍の巡洋艦ホークと衝突事故を起しました。 1911年9月20日、海底の起伏が多いこの海域で水先案内人の先導に従っていたオリンピック(ブリッジ当直ワイルド)と、巡洋艦ホークは互いに接近し、スミス船長の指示の遅れ、ホーク側の操舵ミス等が重なって事故となりました。巡洋艦の艦首とオリンピックの船尾が衝突、巡洋艦の艦首部分はめちゃめちゃに壊れ、オリンピックの船尾に穴があき客室は浸水、ともに大きな損傷をうけました。オリンピックの修理期間は約6週間半、費用はおよそ25万ポンドで総建設費の6分の1に相当する金額でした。海軍は事故2日後に査問会を開きオリンピック側の過失とし、それに対してホワイト・ライン・スター社は英国高等法院に損害賠償の訴訟を起し、1週間後海軍も反対訴訟をおこしました。(3年後の1914年、オリンピック側のミスとして判決が出されました。)
事故後、オリンピックが修理の為造船所の乾ドックのあるベルファストに戻っている間、マードックは海軍の査問会で証言をする待機ためにベルファストか サウサンプトンの家でエイダと過ごしていたと思われます。オリンピックは修理を終えて11月20日ベルファストを出発、マードックは12月11日から翌1912年3月までの航海(サウサンプトン〜ニューヨック間)で一等航海士を勤めました。(この間の2月21日、オリンピックはスクリューのブレード(26トン)を脱落する事故も起こしています。)
1912年3月、オリンピックの姉妹船タイタニックが完成、処女航海にむけての準備が始りました。マードックは航海士長としてタイタニックに乗船、彼が喜んだのは言うまでもありません。ライトラーの後の言葉によれば「3人の浮かれ男」、ライトラーは一等航海士に、同じく友人のディビー・ブレアは二等航海士にそれぞれ昇進しました。しかし不可解な事に、タイタニックが試験航海を終えてサウサンプトンに戻った時、人事の異動を知らされます。ヘンリー・ティングル・ワイルドが航海士長としてオリンピックから異動、この為マードックは一等航海士に、ライトラーは二等航海士に、ブレアーはサウサンプトンで下船してしまいます。このスミス船長による変更は、処女航海のみのアレンジだったとも伝えられています。
就航直前の4月8日、マードックは妹のペグに宛てて手紙を出しています。[写真&詳細「マードックの手紙」]
「・・・私は出港日までは航海士長だが、そのあと一等航海士に戻る。これがあんまり長くなければ良いんだが。事務局長がリバプールからやってきて、(異動の説明をして)、ワイルドが(オリンピックに)戻った後再び私が航海士長になると約束をしてくれた。・・」
そして火夫達がストライキをおこして石炭の積み込み等の乗船準備が大変だった事、ペグの旅行(この時期はイースター:復活祭の休暇中)の事、ちょうどその日妻のエイダが船内見学にやってきた事、そして最後は両親(特に病気療養中の母親に)や兄弟に対する暖かい気遣いで締めくくられています。
乗船準備が完了し、タイタニックは4月10日いよいよサウサンプトンを出港し、フランスのシェルブーンに寄港します。
4月11日、クイーンズタウンに寄港する直前、マードックは今度は両親に宛てて手紙を書いています。サウサンプトンでタイタニックが、米国定期船ニューヨーク及び自社のオーシャニックと危うく接触しかかった出来事、エイダとの別れ、ストライキの影響、そして両親の健康に対する丁重な心遣いで締めくくられています。仕事に関する気遣いから身の回りの出来事まで、さまざまな話題に触れた彼の手紙からは、彼が非常に有能な航海士であったこと、同時に彼がとても愛情深い家族想いの人物で、筆まめであったことがうかがえます。3.(3)氷山衝突時は[航海士:マードック(メインページ)]参照
3.(4)その後
両親が住む生まれ故郷の街ダルビィーティでは、彼の死のニュースが伝わるとすぐに人々は公民館に集まり、彼の英雄的行為をたたえ、死を悼みました。そしてその後、ウィリアムが通っていた高校にマードック・メモリアル・プライズが設立されました。これは同高において、毎年優秀な成績をおさめた学生に対して、特別に授与されるものです。
マードック家では過去5年の間にすでに4人の男が海で命を落としていて、海上ではそれが何時どこでおこっても不思議でないことを知っていました。しかしウィリアムの死後、家族を最も苦しめたのは、彼がピストルで自殺をした、あるいはスミス船長と撃ち合って自殺したというアメリカの新聞による報道でした。エイダやウィリアムの家族は、二等航海士チャールズ・ライトラーからの手紙(生還したすべての航海士の署名入り)によってその報道が誤認であるを知り、救われます。
ホテル・コンチネンタル
ワシントン
1912年4月24日親愛なるマードック夫人
私は生還した航海士を代表して、あまりに大きなものを失ってしまったこの深い悲しみに、お悔やみを申し上げたいと思います。我々のこの気持ちも、言葉で言い表す事ができません。
私は又、新聞で広められた記事に対する反論ついて述べたく、この連絡が遅れた事を深くお詫びします。
私はミスター・マードックを見た事実上最後の男で、明らかに最後の士官であります。彼は折畳み式ボートを発進させようとしていました。私は航海士用船室の屋根にあるもう一つのボートを担当しました。私が左舷側でミスター・マードックは右舷側で作業を進め、乗客を誘導しボートを発進させていたのです。
私はボートを航海士用船室の屋根から降ろした時、もう時間がなく、一旦右舷側にまわって見ました。私は確かに見おろす形でミスター・マードックと彼の部下を見ました。彼は依然としてボートの着水準備の為にボートにからまったロープをはずそうと忙しく作業を進めていました。この最後の瞬間、船は浸水し始めて我々は皆海水に流されたのです。
その他の記事による”最期”は絶対に間違いです。ミスター・マードックは最後の瞬間まで彼の職務を遂行し、亡くなりました。
もし他に、我々がお力になれる事がありましたら、どうぞご遠慮なくお申し出下さい。親愛なる
C.H.ライトラー、二等航海士;
G.グローブス・ボックスホール、四等航海士;
H.J.ピットマン、三等航海士;
H.G.ロウ、五等航海士;
生還したすべての航海士の署名入りで、ライトラーからエイダに届いた手紙。
ウィリアムと仲の良かったペグは、この後も義理の姉エイダの写真を長い間ベッドルームに飾ってありました。この事は彼女たちがウィリアムを通して、本当の姉妹のようにいかに心を通じ合っていたかを示しています。
マードック・メモリアル・プライズ
ウィリアムの母親、ジェニー・マードックは1914年1月20日、75歳で亡くなりました。ウィリアムの死が、すでに病気がちであった彼女の健康に影響を与えたのかもしれません。父親のサミュエル・マードックは1917年3月6日、75歳で亡くなりました。
妹ペグは1973年に91歳で亡くなっています。
エイダ・フローレンス・マードックは、夫ウィリアムの死の苦痛から逃れる為に、サウサンプトンの家を処分してイギリスを去り、フランス・ブルターニュで暮らしていたようです。第一次世界大戦が始るとロンドンに住みはじめ、ここはフランスから逃れてきた親戚たち(ニュージーランド人)がしばしば訪れていたようです。
1918年、彼女の故郷であるニュージーランドのクライストチャーチに戻りました。彼女は生涯再婚せず、子供がいなかった事だけが悔やまれると自分の家族に漏らしていました。エイダとウィリアムは本当に深い絆で結ばれてたのです。エイダは1941年4月21日、65歳で亡くなりました。
後年のエイダ・フローレンス
Special thanks! Photo credits
;Richard Edkins;Susanne Stormer "Good-bye, Good Luck"すべての記事・写真の無断転用を禁じます。
(By Chie OGATA)