「タイタニックのクルーたち(chie's Titanic Officers)」豪華客船タイタニック(Titanic)の歴史、史実、乗組員、クルー、航海士(特にマードック航海士)機関士・設計士・通信士を紹介。自殺の謎、映画の中の航海士、コレクションなど。by智恵-ちえ-
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◆ハーバート・ジョン・ピットマン三等航海士◆
(Third Officer Herbert John Pitman)

”Now, men, we will pull toward the wreck! ”

 

 
ハーバート・ジョン・ピットマンは1877年11月20日、イギリスのCastle Cary、Somrsetでヘンリー・ピットマンとサラの次男として生まれた。 ウィリアム・ヘンリーとエイダ・マリーの三人兄弟であった。父ヘンリーは、彼が幼いうちに死別(1880年)、母はチャールズ・キャンディーと再婚している。

ピットマンは17歳の時から船に乗り始めた。経験を積み重ね、3年間帆船の航海士として勤務、そののち蒸気汽船に移った。 彼は1年間ブルー・アンカー・ライン社で乗船勤務し、その後ショア・ライン社(6ヶ月)を経て、ホワイト・スター・ライン社 (タイタニック乗船までは5年間)へ。 オーシャニックで二等航海士を勤めたあと、タイタニックに三等航海士として乗船した。
 

ピットマンはタイタニック乗船後、14日日曜日朝9:00に受信した氷山警告のメッセージ(キャロニアより)を見ている。 これはチャートルームのテーブルに貼り付けられたもので、わずかに「ice(氷)」と船名「Caronia」とが記されているだけの ものであった。(この日6件の警告が来ているが、明らかに船長が受け取ったものは最初の2件である。)
ピットマンによれば、この警告メッセージは単に1つないし2つの氷山に関するものであって特に注意を引くものではなく、 ブリッジの誰も船の航路上に巨大な浮氷原が広がっているとは思わなかったであろう、と後に供述している。
 

彼は当夜6:00pmから8:00pmまでブリッジ勤務で、最後にいつものように星図による船の位置計算をした後、ボックスホール四等航海士らと交代をした。
氷山衝突時彼は非番で就寝中であり、物音と静かな振動に気付いたものの、まだ横になっていた。それからデッキに出てみたが なにも異常を認められなかったので再び自分の船室に戻り、パイプに火をつけて休んでいた。しばらくするとボックスホールがやってきて、氷山に衝突したと 告げた。ピットマンは着替えてボートデッキに行くと、クルー達がボートのカバーを外しにかかっていた。
船首凹甲板に落ちた氷について最初に証言をしたのはピットマンである。
 

救命ボートの避難誘導の際は、一等航海士マードックと共に右舷側を担当した。まず7号ボートを送り出し、次に5号ボートを準備した。 (女性と子供が優先、但し余裕があれば男性も乗せる、これが右舷の規則であった。) ピットマンは最後に数名の男性客を5号ボートに乗せた。 5号の発進準備が整った時、操舵員のアルフレッド・オリバーを責任者としてボートに残して、ピットマンはボートから降りた。 この時マードックはピットマンにこう言った。
「君がこのボートに乗って、監督を。舷門のあたりで待機してくれ。」
そして2人の航海士は握手を交わした。
「さようなら。幸運を祈る。(Good Bye, Good Luck!)」
ピットマンは、この時点では本当に船が沈むとは思っていなかった。彼がそれを知るのは、ボートを発進させてから1時間後のことであった。
 

タイタニック沈没後、ピットマンは5号ボートで現場に引き換えそうとしたが、乗客の強い反対にあって断念。(下記) 彼は5号と7号と結び合わせて監督、がたがたとふるえるクロスビー夫人に帆布をかけ、乗客のめんどうをみながらその夜を過ごした。 翌朝カルパチアによって救助された。
 
 


生還後は、アメリカおよびイギリスの査問会で証言をした。試験航海の時、船が全速力(24ノット)を出せなかったのは燃料不足のせいだと証言している。 船が沈没した時、4回爆発音を聞いた、と述べている。また、三海里先に他の船の白い灯を目撃している。 彼は他の生還した航海士同様、救命ボートは満員状態で本船から降ろされるべきではないと考えていた。
 

ピットマンは後に、ミミ・カルマン(ニュージーランド人)と結婚した。しかし残念な事に数年後に死別したと伝えられる。 彼はタイタニックの後35年に渡って船員生活を続けたが、視力の衰えを感じた彼は航海士(デッキ・クルー)から パーサー・スタッフへ転身している。オリンピックにも勤務した。
二度の大戦を経て、70歳で退職した後はピットクーム(イギリス)の街で姪と暮らした。
1961年12月3日没、享年84歳。ピットクームの教会に埋葬された。
 

1998年4月、ロンドンのサザビーのオークションで、ピットマンゆかりの7個のメダルが$7300で売却された。 これらは彼が二度の大戦を通して海軍から受賞したものであると、ロイター通信は伝えた。
また、ピットマンの航海士用ホイッスルが復刻版としてロンドンで販売されている。
 
 
 
 

生年月日:1877年11月20日生まれ。
事故当時:34歳。生還。
出身:英国 Castle Cary(Somrset)
給与:9.10.00ポンド/月
履歴:
(1894年〜 乗船勤務)
1902年頃〜 帆船勤務
1905年頃〜 ブルー・アンカー・ライン社へ
      蒸気船勤務 1906年頃〜 ショア・ライン社へ
1907年頃〜 ホワイト・スター・ライン社へ
     ’Oceanic’(W.S.L;〜ニューヨーク;二等航海士)
1912年3月 ’Titanic’(W.S.L;三等航海士)
   5月 事故後の査問会(アメリカ及びイギリス)
 以降  ’Olympic’(W.S.L;〜ニューヨーク;パーサー)
     ’MBE’受賞、
     第一次世界大戦、第二次世界大戦にて7個のメダルを受賞。
     ミミ・カルマンと結婚(数年後死別)
1947年  引退後、Pitcombeにて姪と暮らす。
1961年12月3日没、享年84歳。
      [略:W.S.L=ホワイト・スター・ライン社]
 
 
 
 
 

事故後のアメリカの査問会にて、委員長のスミス上院議員との質疑応答
ピットマン「私は船が沈んだあとすぐ、クルーに言いました『さあ現場に引き返そう。(Now, men, we will pull toward the wreck.)』。 ところが救命ボートにのっていた乗客が皆、 そんなことをしたらこちらのボートが押し寄せた人々によって沈んでしまう、狂気の沙汰だと言いました。 私は、まだ乗れる余地があると言ったのです。」
スミス上院議員「誰が反対したのですか?」
ピットマン「ボートに乗っている皆が、です。」
スミス上院議員「女性でしたか?」
ピットマン「分かりません。とにかく彼らが狂気の沙汰だと。そして私達は、オールを漕ぐ手を休めました。」
スミス上院議員「どれほどたくさんの(助けを求める)泣き声がきこえましたか?」
ピットマン「そのことについては、お話したくありません。」
スミス上院議員「もちろんそうでしょうが。どのような泣き声でしたか、次々と、それとも時々聞えたのですか?」
ピットマン「苦しげなうめき声が1時間程続きました。」ピットマンの目に涙がうかんだ。
スミス上院議員「そしてあなたは1時間、その付近にいたわけですね?」
ピットマン「どうか委員長、どうかもう止めて下さい。私はその時の事を供述したくありません。」
スミス上院議員「あなたを苦しめるつもりはありません、しかし我々は、その1時間の間に起こったことを知る必要があるのです。」
ピットマン「ええ、そうです、我々は1時間現場近くにいたのです。」
スミス上院議員「彼らの声はずっと続いたのですか?」
ピットマン「・・・徐々に静かになっていきました。・・・」
スミス上院議員「それがあなたのやった事すべてですか?」
突然ピットマンの声が途切れ、彼はハンカチで涙をぬぐった。
ピットマン「もうどうか、そっとしておいてください。」
スミス上院議員「あなたのやった努力が、そこまでなら、そう言いなさい、そうすれば質問を打ち切ります。」
ピットマン「そのとおりです、委員長。それが私のやった…努力のすべてです。」
(アメリカの査問会 ピットマンの証言より)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Photo credits
; April Prichard & Aurora Brynn "Titanic Heroes";<参考文献>

 

Written by Chie OGATA


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