|
◆タイタニック設計士 トーマス・アンドリュース◆
(Mr Thomas Andrews Jr.)
” The Titanic is now about complete and will I think do the old Firm credit tomorrow when we sail ”タイタニックを設計した造船技師トーマス・アンドリュースは、北アイルランド、コンバ(Comber)で1873年2月7日に生まれました。(父も同じトーマスなので、正確にはトーマス・アンドリュース・Jr.-ジュ二ア-となっています。)父トーマスは地元の政治家として活躍、高等裁判所の判事も勤め、又、兄のジョンは後に北アイルランドの首相となった人で、トーマスは地元の名家の次男坊として生まれました。母エリザベスはハーランド&ウルフ社会長ピリー卿の姉妹で、トーマスはピリー卿の甥っ子です。
(ピリー卿:造船会社ハーランド&ウルフ社に入社後、わずか12年で共同経営者となり、創始者エドワード・ハーランドが亡くなると代表取締役社長となった。)1884年にトーマス・アンドリュースは王立ベルファストアカデミーに進学、その後1889年16歳の時に、ハーランド&ウルフ社へ見習い工として入りました。幹部候補生として5年間もの間続いた修行は、彼の機械工学や機械構造といった技術的な才能を開花させるだけでなく、現場で作業員と共に働くことで現場の職人として必要なチームワークや絆を身につけていったようです。彼の仕事熱心で誠実な人柄を表すエピソードには「休憩の警笛がなる前に休んでいる男たちを見つければ怒り狂い、遅刻者にも意見する。しかし、困ったものには常に喜んで手を貸し、既婚者の命は貴重だからと言っては危険な作業には自らその役目を買って出たり、病身の妻を抱える製図工のために果物と花束を用意したりする。」役員からも職人からも大きく信頼され、1901年28歳の時、ハーランド&ウルフ社の造船責任者となり、同時に、名高い海軍建築協会の会員となっています。この頃は、ホワイトスターライン社の4つの大きな客船「Celtic」「Cedric」「Baltic」「Adriatic」の建造に携わりました。
1907年ハーランド&ウルフ社は、彼の伯父が同社の会長ピリー卿であることと無関係に、アンドリュースの仕事に対する評価として、アンドリュースを代表取締役に昇進させます。ベルファストの造船所では、上の者も下の者も誰もが皆、彼のすばらしい仕事ぶりと、誠実で謙虚な人柄に尊敬の念を寄せていたのです。そしてこの年、いよいよオリンピックの建造企画が持ち上がってきます。世界最大の豪華客船「オリンピック」「タイタニック」そして「ジャイガンティック」の起工が続きます。
1908年6月24日、アンドリュースはヘレン・レリー・バーバーと結婚します。2年後1910年に長女エリザベス(エリザベス・ロウ・バーバー・アンドリュース、呼び名は頭文字をとって'ELBA')が誕生。彼女が誕生する数週間前の春の夜、アンドリュースは妻ヘレンを造船所に連れ出します。完成半ばのタイタニックの甲板で、自作の船を案内する彼の頭上には、当時地球に接近していたハレー彗星が明るく夜空を照らします。仕事もプライベートも最も輝いていた瞬間だったに違いありません。
一家は長女誕生後に、ベルファストに引越しをしました。
1911年5月31日、タイタニックの進水式、同時にオリンピックが処女航海の為にリバプールへ旅立つ日ったこの日、10万人もの人々が見物客がベルファストに集まりました。1912年4月2日、試運転を済ませたタイタニックは、10日がいよいよ出航日です。彼はオリンピックのときと同様に、船内の最終チェックや今後の改良点の点検のためにタイタニックに乗船するのです。彼が航海直前に妻に宛てた最後の手紙の一文です。
「いまやタイタニックはほぼ完璧な船だ。明日無事に出航すれば、私たちの造船所の名はますます誉れ高くなるだろうと思う。」アンドリュースはチケットNo.112050をもってA36号室に乗船しました。
出航後、彼は改良点をまとめたり、キャビンで設計図をひろげ研究に没頭する毎日でした。又、新船にとまどうクルーたちのサポートをしたり、時には喧嘩の仲裁役をひきうけたりもしました。すでに顔見知りのクルーも多く、謙虚で誠実な彼はここでも人気者で、マードックが愚痴をこぼしに行ったり、パン焼き職人のジョーキンがアンドリュースの為に特別なパンを焼いて持っていったというエピソードもあります。4月14日夜11時30分、タイタニックは氷山に衝突、船体右舷側に大きな亀裂を生じます。タイタニックの16の区画に分かれた防水壁は、船首と船尾はFデッキまで、船体中央部はEデッキまでの高さで、隔壁5区画から6区画にわたる亀裂から海水がどんどん浸水している状態では、海水が次々と隔壁を越え隣の区画に浸水、この勢いではポンプでは間に合わず、すべての区画が浸水して、ついには沈没してしまう、、、スミス船長と共に船の損傷を調べたアンドリュースは、タイタニックが1時間ないし1時間半で沈没するであろうと予見します。船長は航海士たちに救命ボートの用意を命じました。まさに絶望的な状況でした。
避難誘導時の当初は乗客の危機感が薄かったのですが、アンドリュースは乗員・乗客を含めて多くの人に「救命ボートに乗りなさい」「救命衣を着用しなさい」と命令したり、勇気付けたりしています。
。。。ミス・ロビンソンはアンドシュースとAデッキで出くわしました。アンドリュースは気難しい親のように言いました。
「救命衣を付けるように言ったのに!」
「ええ、でも持っているものかと思いましたわ。」
「そんなことはどうでもいい!身に付けて、そして歩き回りなさい。そしてお客さんに見せなさい。」
「格好悪く見えるし、、、」
「いいや、付けなさい。、、、いいですか、もしも命が大切だと思うなら、身につけなさい。」一等船客スチュワードのジョン・スチュワートは、午前2時10分、一等喫煙室でアンドリュースが一人呆然とたたずんでいるのを見て驚きました。
「アンドリュースさん、救命衣をお付けにならないのですか?」
彼は何も答えませんでした。彼の救命衣は、ゲーム・テーブルの緑の盤の上に投げ出したままでした。暖炉の上に飾られた絵画「新しい世界の接近(The Apporoach To Plymouth Harbour, Norman Wilkinson)」を見つめたままで、それが彼の最後に目撃された姿となりました。トーマス・アンドリュース 享年39歳。
船内の改良点検のためにタイタニックに乗船した、アンドリュースが選んだハーランド&ウルフ社の8名の技術スタッフも全員死亡。ここにチーム全員の名前を掲載いたします。
The Nine Men Harland & Wolff Guarantee Group Mr.Thomas Andrews Jr. ( Managing Director) Mr William Henry Campbell (Joiner Apprentice) Mr Roderick Robert Crispin Chisholm (Chief Draughtsman) Mr Alfred Fleming Cunningham ( Apprentice Fitter ) Mr Anthony Wood "Archie" Frost ( Foreman Fitter ) Mr Robert J. Knight ( Leading Hand Fitter Engineer ) Mr Francis "Frank" Parkes ( Apprentice Plumber ) Mr William Henry Marsh Parr ( Assistant Manager of the Electrical Department ) Mr Ennis Hastings Watson ( Electrician Apprentice )
Photo credits
; "Titanic-Titanic.com";<参考文献>
Written by Chie OGATA