「タイタニックのクルーたち(chie's Titanic Officers)」豪華客船タイタニック(Titanic)の歴史、史実、乗組員、クルー、航海士(特にマードック航海士)機関士・設計士・通信士を紹介。自殺の謎、映画の中の航海士、コレクションなど。by智恵-ちえ-
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◆エドワード・ジョン・スミス◆
(Captain Edward John Smith)

Every man for himself.

 

 
”E.J”ことスミス船長は、1850年、イギリスのスッタッフォードシャー、 Hanlyに生まれた。1869年(19歳)からGibson and Company社で見習いとして船に乗り 経験を積み、1880年からホワイト・スター・ライン社へ移り’Celtic’の四等航海士を勤める。 その後の昇進は早く、1887年に’Republic’(旧)で船長になり、以降少なくとも17の船で船長を勤めた。
エレノア(Eleanor)と結婚し、1900年(1901年?)一人娘のヘレン(Helen)が誕生。


1899年から始まったボーア戦争(1902年まで)では海軍輸送船の船長を勤めた。その功績により’Transport Medal’と ’Reserve Decoration’を受賞し、英国海軍予備役中佐(Commander)の位を与えられた。
このため彼の船は後に、英国商船協会の’Red Duster’旗でなく英国海軍予備役の’Blue Duster’旗 を掲げた。


1904年にホワイト・スター・ライン社の主席船長となり、以降その時々の社の最新船の船長を勤めた。 1904年第二’ Baltic’、1907年から’Adriatic’、1911年から’Olympic’(処女航海6月21日)。 そして1912年タイタニックへ。
彼の華々しい経歴、同僚、部下、乗客からの人望、ホワイト・ライン・スター社からの信任。
しかし、彼の乗務した船での事故についても触れておく。


1889年1年27日’Republic’にて、ニューヨーク港の入り口で座礁事故が発生、その直後ボイラーの管に穴があき乗組員が三名死亡した。 1890年12月’Coptic’にてリオデジャネイロ沖で座礁事故、1909年11月4日’Adriatic’でも座礁している。そして 1911年9月20日オリンピックで、巡洋艦ホークと衝突事故をおこしている。(オリンピックのダメージは相当なもので、修理に2ヶ月、25万ポンド かかった。ホワイト・ライン・スター社は、海軍に対して訴訟を起している。)
1912年4月10日、タイタニックはサウサンプトン出港直後には’New York’とあやうく接触するところであったが、これは回避した。
会社のずさんな経営体質とともに、スミス自身の自信過剰を指摘する研究家もいる。


1912年4月13日から14日の間にタイタニックに届いた6件の氷山の警告のうち、少なくともを2件はスミス船長自身 が受け取っている。14日午後、スミス船長は通常の航路より南へ2マイル(約3.2Km)ずらす指示を出している。 これが氷原を回避するつもりの変更だったかもしれない。しかし、詳細は不明である。
午後9時頃ブリッジを訪れて、当直のライトラー二等航海士と天候や穏やかな海について会話をし、 9時20分に退室。
氷山衝突後、アンドリューらと船を巡回し、船の運命を知る。ワイルドにボートの準備を、マードックに乗客の誘導を指示し、 自ら無線室に出向き、救難信号の発信を命じた。女性と子供を先にボートに乗せるよう指示し、避難誘導が始まった。 避難が始まった最初の頃、彼もタイタニックの右舷約5マイル(約8Km)先に「謎の船(Mystery Ship)」を目撃している。これに向かって ボートを漕ぐように言ったが、この船はその後視界から消えてしまう。
船首が傾き午前一時半をまわった頃、定員に満たない状態で発進した救命ボートに向かって本船に戻るようにメガフォンで呼びかけるが、 誰も戻ることはなかった。


船の沈没とともに死亡。
享年62歳。









生年月日:1850年1月27日生まれ。
事故当時:62歳。死亡。
出身:英国 Staffordshire、Hanley
給与:100.00.00ポンド/月
資格:英国海軍予備役 中佐
   (Commander、Royal Naval Reserve )
履歴:
1880年  ’Celtic’(W.S.L;四等航海士)
1887年  ’Republic’ (W.S.L;〜ニューヨーク;船長)
1989年  ’Republic’(W.S.L;〜ニューヨーク;船長)[座礁事故]
1890年  ’Coptic’ (W.S.L;船長)[座礁事故]
1899年〜 ボーア戦争(1902年まで)
     海軍輸送船の船長を勤める
     ’Transport Medal’受賞
     ’Reserve Decoration’受賞
     ’Commander’(中佐)に昇進
1901年  ’Majestic’ (W.S.L;船長)[火災発生]
1904年〜 W.S.Lの主席船長
     ’Baltic’(W.S.L;船長)
1906年  ’Baltic’(W.S.L;船長)[リバプールにて火災発生]
1907年  ’Adriatic’ (W.S.L;船長)
1909年  ’Adriatic’ (W.S.L;〜ニューヨーク;船長)[座礁事故]
1911年  ’Olympic’(W.S.L;〜ニューヨーク;船長)[巡洋艦’HMS Hawke’と衝突事故]
1912年  ’Titanic’(W.S.L;船長)
  4月15日没 享年62歳
      [略:W.S.L=ホワイト・スター・ライン社]






1912年4月15日午前2時5分すぎ、スミス船長は無線室を訪れた。他船との交信 を必死で続けるフィリップ通信士と、彼を補佐するブライド通信士。スミス船長は彼等にこう言った。
「もうこれ以上、どうする事もできない。もういいから、早くここから出なさい。」
なおも動こうとしない二人に、やさしくこう付け加えた。
「自分の身を守りなさい。皆、自分自身の為に行動しなさい。(Every man for himself)」
ブライドは、船長が救命衣をまだ身につけていない事に気が付いた・・・
(An Illustrated Historyより )












Photo credits
; April Prichard & Aurora Brynn "Titanic Heroes";<参考文献>

 

Written by Chie OGATA


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