「タイタニックのクルーたち(chie's Titanic Officers)」豪華客船タイタニック(Titanic)の歴史、史実、乗組員、クルー、航海士(特にマードック航海士)機関士・設計士・通信士を紹介。自殺の謎、映画の中の航海士、コレクションなど。by智恵-ちえ-
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◆チャールズ・ハーバート・ライトラー二等航海士◆
(Second Officer Charles Herbert Lightoller)

”Hadn't we better get the women and children into the boats, Sir ?”

 

 


生還した航海士の中で最も職位の高かったライトラー二等航海士は、1874年、イギリスのランシャー に生まれた。13歳の時から、見習いとして帆船’Primrose Hill’(4本マスト、2,500トン)に乗船。続いて、1889年’Holt Hill’ これは嵐に遭って難破、航海士長は死亡、他の船に8日後に救助された。その後、’Duke of Abercorn’を経て、再び’Primrose Hill’ で、カルカッタへ向かった。ここで彼は、二等航海士資格(Second Mate's Certificate)を取得してる。その後、大型帆船’Knight of St.Micheal’ に三等航海士として乗船中、積み荷の石炭による火災が発生、これを消し止め船を救った功績により、二等航海士に昇格した。
 

1895年(ライトラー21歳)から、Elder Dempster's African Royal Mail Service社にて、蒸気汽船の経験を積む。3年後、西アフリカ海岸にて マラリアにかかり、これで危うく一命を落とす所であった。彼はこの経験で船を下りる決心をして、1898年、ゴールドラッシュに湧く カナダへ、自身の一攫千金を夢見て旅立った。しかしながらこれは不成功に終わり、彼は渡り労働者として働きながら、1899年、イギリスへ 帰国。無一文の彼は、再び船に乗る。船長資格(Mster's Certificate)を取得し、Greenshields and Cowie社の’Knight Companion’に、 三等航海士として乗船した。
 

1900年より、ホワイト・スター・ライン社にて勤務。大型客船’Medic’(120,00トン、イギリスー南アフリカーオーストラリア) にて四等航海士を勤めた。この’Medic’において、その後長い付き合いとなる同僚であり友人であるウィリアム・マードック(二等航海士) に出会った。ライトラー27歳、マードック28歳。この後2人は度々、同じ船に勤務するのである。
1902年、Extra Mster's Certificate(特別船長資格)を取得。
1903年、ライトラーはオーストラリアへ向かう’Medic’でシルビア・ホーレイ・ウィルソンと出会う。彼女は’Medic’でイギリスからシドニーに帰国するところであった。 彼女は再び’Medic’でイギリスに渡り、二人は結婚した。
 


その後、大型客船で経験を積み、昇進を重ねてゆく。’Majestic’(船長 E・J・スミス)を経て’Oceanic’(17,000トン)で三等航海士から二等航海士へ、 ’Majestic’で一等航海士へ、再び’Oceanic’で一等航海士を勤めた。
1912年3月、タイタニック(46,000トン)に、一等航海士として乗船。’Oceanic’からは他に、 二等航海士としてデイヴィット・ブレアー、三等航海士としてハーバート・ピットマン、六等航海士としてジェームス・ムーディーが乗り込んだ。他には、 ウィリアム・マードックが航海士長、ジョセフ・ボックスホールが四等航海士、ハロルド・ロウが五等航海士として着任した。
4月3日、サウサンプトンで、試験航海から帰って来ると、突然の異動が発表された。姉妹船オリンピックから、スミス船長の命により、ヘンリー・ワイルドが 航海士長としてタイタニックに乗船する事となった。これによって上級航海士の三名が降格、マードックは一等航海士に、ライトラーは二等航海士に、ブレアーは下船した。 そして、運命の航海へと出発する。
 

氷山に衝突した時、彼は非番であった。なにかを感じて一度私室から出たものの、誰にも会わず、再びベットで横になっていた。ボックスホールが起こしに来て、あわててパジャマの上から セーターを着込み、コートを羽織り、ボートデッキへと向かった。
彼は、左舷(port side )側のボート(ボート番号は偶数)による避難誘導を担当した。彼は「女性、子供を優先する」という ルールを、最後までかたくなに守り続けた。誘導の始まった最初の頃、彼もまたタイタニックの右舷約5マイル(約8Km)先に汽船がいるのを目撃している。これに向かえば、安全に救出されると思っていた。 何人もの人に目撃されたこの「謎の船(Mystery Ship)」の存在が、タイタニックにおける悲劇の一つであることは、言うまでもない。
船が沈没した時は、ひっくり返って浮き上がったボートB号によじ登り、他の乗客と共に救助を待った。無事生還。

ニューヨークに滞在中、アメリカの新聞でマードック航海士がピストル自殺・あるいは船長yと撃ち合って志望をしたという話が報道されたとき、彼は直ちにマードック夫人エイダにあてて次のような手紙を送った。生還したすべての航海士の署名入りで書かれたこの手紙は彼らの信頼と友情を顕す一筆であり、この手紙によって夫人やマードックの家族は心の傷が癒された。(→詳細)

 

ホテル・コンチネンタル
ワシントン
1912年4月24日

親愛なるマードック夫人

私は生還した航海士を代表して、あまりに大きなものを失ってしまったこの深い悲しみに、お悔やみを申し上げたいと思います。我々のこの気持ちも、言葉で言い表す事ができません。
私は又、新聞で広められた記事に対する反論ついて述べたく、この連絡が遅れた事を深くお詫びします。
私はミスター・マードックを見た事実上最後の男で、明らかに最後の士官であります。彼は折畳み式ボートを発進させようとしていました。私は航海士用船室の屋根にあるもう一つのボートを担当しました。私が左舷側でミスター・マードックは右舷側で作業を進め、乗客を誘導しボートを発進させていたのです。
私はボートを航海士用船室の屋根から降ろした時、もう時間がなく、一旦右舷側にまわって見ました。私は確かに見おろす形でミスター・マードックと彼の部下を見ました。彼は依然としてボートの着水準備の為にボートにからまったロープをはずそうと忙しく作業を進めていました。この最後の瞬間、船は浸水し始めて我々は皆海水に流されたのです。
その他の記事による”最期”は絶対に間違いです。ミスター・マードックは最後の瞬間まで彼の職務を遂行し、亡くなりました。
もし他に、我々がお力になれる事がありましたら、どうぞご遠慮なくお申し出下さい。

 

親愛なる
C.H.ライトラー、二等航海士;
G.グローブス・ボックスホール、四等航海士;
H.J.ピットマン、三等航海士;
H.G.ロウ、五等航海士;


 


生還後は、アメリカの査問会、続いてイギリスでの査問会で、数々の質問(約1200)に対して証言した。そして、新しい年を迎えた。 1913年、’Oceanic’の一等航海士を勤めた。 (左:ピットマン 右:ライトラー)
 

1914年、第一次世界大戦が勃発。’Oceanic’も海軍に徴用され、ライトラーは予備役大尉として働いた。’Ocenic’はその年の秋に座礁 し(その時彼は非番であった。再び救命ボートで避難する。)、ライトラーは新たに’Campania’(13,000トン、キューナード社製)に任命された。 1915年の暮れには、魚雷艇’HMTB 117’に任命され、指揮を任された。1916年6月ドイツの’Zepplin L31’の攻撃に成功した事により、’Distinguised Service Cross’賞 を与えられ、魚雷駆逐艦’Falcon’の指揮官に昇進。その後は、駆逐艦’Garry’の指揮をとり、ドイツの潜水艦’UB-110’と衝突 (彼は、この時も非番で眠っていた)、相手を沈没させた。これにより’Lieutenant-Commander’(少佐)に昇進、DSCを受けた。
 

1918年、戦争終了後、ホワイト・ライン・スター社に戻ったライトラーに待ち受けていたのは、大型客船’Celtic’の航海士長のポストであった。 これだけの経験があるにもかかわらず、である。社は、まるで「タイタニック」に関係するものを、すべて忘れ去りたいかのようであった。 結局、生還した他の航海士同様、船長になることはなかった。ライトラーは意気消沈し、ホワイト・ライン・スター社を去り、 海での船員生活にピリオドを打った。
 

その後しばらくして、彼はゲストハウス(食事と宿泊を提供する簡易ホテル)を開業した。
1929年、海軍の払い下げとなった蒸気汽船を購入、改造し、ディーゼルモーターのヨット’Sundowner’のオーナーとなる。 (58フィート、62馬力)
ライトラー一家(妻と二人の息子、ロジャーとブライアン)はこれをイギリス〜ヨーロッパの旅行に利用した。
1939年、ライトラーは養鶏場を始め、成功を収めた。
 

1939年9月、第二次世界大戦が勃発。空軍のパイロットだった次男のブライアンは、ウィルヘルムにて戦死した。
1940年5月、イギリス・フランス連合軍30万は、フランスの最北端の港町ダンケルクでドイツ軍に包囲された。 5月31日5PM、海軍本部より電話が入り、ライトラー(66歳)は彼の船’Sundowner’での出動を要請された。包囲された連合軍の同胞を、海路で救出する為 にダンケルクへ向かう「ダイナモ」作戦である。
6月1日、ライトラーは、長男ロジャーを連れ、他の海軍の艦と共にダンケルクへと向かった。それまで21名しか 乗せたことのなかった’Sundowner’で130名を救出、爆撃や機銃掃射の危険な海域を突破、12時間後に無事に帰還した。 この作戦では、30万以上の連合軍の大部分が海路撤退、帰国することができた。
英国海軍は、このあと戦争終結までライトラーに動員を要請した。(’Pool’)
海軍に所属していた彼の息子ロジャーは、1945年、ドイツ軍の奇襲により北フランスで戦死。
 

1946年、戦争が終わると、ボートヤード’Richmond Slipways’を運営、ロンドン水上警察のボート等がここで作られた。
 

1952年12月8日、チャールズ・ハーバート・ライトラー、没。享年78歳。’Garden of Remembrance’に 眠る。
 
 
 
 
 

生年月日:1874年3月30日生まれ。
事故当時:38歳。折畳み式ボートB号にて生還。
出身:英国 Lancashire、Chorley
給与:14.00.00ポンド/月
資格:英国海軍予備役 少佐
   (Lieutenant-Commander、Royal Naval Reserve )
履歴:
1888年  ’Primrose Hill’(帆船)
1889年  ’Holt Hill’(帆船)
  〜  ’Duke of Abercorn’、’Primrose Hill’(帆船)
     Second Mate's Certificate 取得
     ’Knight of St.Micheal’(三等航海士から二等航海士へ)
1895年  Elder Dempster's African Royal Mail Service社 (汽船)
 98年  マラリアに罹り、その後カナダYukonへ(ゴールドラッシュ)
1899年  帰国
     Mster's Certificate(船長資格)取得
     ’Knight Companion’(Greenshields and Cowie社)
1900年〜 ホワイト・ライン・スター社(以下;W.L.S)
     ’Medic’(W.S.L;四等航海士;イギリスー南アフリカーオーストラリア)
     ’Majestic’(W.S.L;三等航海士)
     ’Oceanic’(W.S.L;三等航海士から二等航海士)
1902年  Extra Mster's Certificate(特別船長資格)取得
1903年  シルビアと結婚
1907年〜 ’Majestic’(W.S.L;一等航海士)
     ’Oceanic’(W.S.L;一等航海士)
1912年  ’Titanic’(W.S.L;二等航海士)
1913年  ’Oceanic’(W.S.L;一等航海士)
1914年〜 第一次世界大戦、海軍予備役(〜1918年)
     ’Campania’
     ’HMTB 117’(魚雷艇指揮官)’Distinguised Service Cross’受賞
     ’Falcon’(魚雷駆逐艦指揮官)
     ’Garry’(駆逐艦指揮)’Lieutenant-Commander’(少佐)に昇進
1918年  ホワイト・ライン・スター社辞職
     ゲストハウスの開業
1929年  ’Sundowner’購入(ディーゼルヨット)
1939年  養鶏場
1939年〜 第二次世界大戦(〜1945年)
1940年  ’Sundowner’にて、ダンケルク・ダイナモ作戦に参加
1946年  ボートヤード’Richmond Slipways’運営
1952年12月8日没。享年78歳。
       
 
 
 
 

12:25 am、船の左舷側では、ライトラー二等航海士は、ボートの準備を進めていた。 蒸気の轟音の中で、彼は大声で船長に尋ねた。
「女性と子供を優先させてボートに乗せた方がいいですね?」(Hadn't we better get the women and children into the boats, Sir ?)
スミス船長は、うなずいた。
「・・・なぜならば、私は、左舷の船首から数マイル先に、蒸気汽船の明かりが見えていたからです。 女性と子供を乗せれば、その船に救助されるまで、万が一なにかあっても、この静かな海上で彼女たちは安全でいられます・・・」
(J.P.Eaton & C.A.Haas;Triumph and Tragedt より )
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

Photo credits
; April Prichard & Aurora Brynn "Titanic Heroes";<参考文献>

 

Written by Chie OGATA


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