「タイタニックのクルーたち(chie's Titanic Officers)」豪華客船タイタニック(Titanic)の歴史、史実、乗組員、クルー、航海士(特にマードック航海士)機関士・設計士・通信士を紹介。自殺の謎、映画の中の航海士、コレクションなど。by智恵-ちえ-
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◆ロストロン船長とカルパチア◆

 

カルパチア船長アーサー・ヘンリー・ロストロンは、1869年5月14日、英国ランカシャー州ボルトン北部のアストレイ・ブリッジに生まれた。地元アストレイ・ブリッジ・ハイスクールでの教育を経て13歳で海軍航海練習船に乗り込み、2年後にリバプールのウェバリー・ライン社に見習いとして帆船に乗船。小型帆船レッドガントレットの二等航海士となり、帆船・蒸気船で経験を積み、1894年に特別船長資格を取得、1895年にキューナド社に入社した。最初は同社所有のウンブリアの四等航海士として勤務開始、キューナード社所有の数々の船での乗船勤務を経て、1907年にはルシタニアの一等航海士となる。残念ながら処女航海の前に彼は地中海貿易船の船の船長に転任となるが、その後、彼にとっての初めての客船「ペノニア」を含めて1911年までニューヨーク・地中海ルートの船長として指揮を執った。そして、彼が船長を勤める6番目の船カルパチアに1912年1月から乗船勤務となった。

 

【 カルパチア 】

カルパチアは、1912年4月11日(木)ニューヨークから地中海に向けて出向した。

   全長541フィート(165m)、横幅64.6フィート(19.66m)
   重量13555トン、排水量86000トン

   スピード:通常14ノット(26km/h)

   乗客(実際の乗客数/収容可能数)
   一等船客 128名/100名
   二等船客 50名/200名
   三等船客 565名/2250名

   乗員
   船長:アーサー・ヘンリー・ロストロン(42歳)
   機関長:A.B.ジョンソン(59歳)
   航海士長:トーマス・ウィリアム・ハッキンソン(52歳)
   一等航海士:ホーラス・ディーン(35歳)
   二等航海士:ジェームス・ビセット(29歳)
   三等航海士:エリック・レス(24歳)
   四等航海士:ジェフリー・バリッシュ(25歳)

   通信士:ハロルド・トーマス・コタム(21歳)



1912年4月14日0時35分
通信士コタムは、就寝直前ではあったが、定期船パリジャンに送ったメッセージの返答がまだだった為、待っている間、中継局マサチューセッツ州コッド岬からのほかのメッセージを聞いていた。その中のいくつかがタイタニックへのメッセージだった為、彼はタイタニックがそれらのメッセージを受信しているか確かめるため、気軽なな調子で話しかけた。

「MPA(カルパチア)-ねぁきみ、MCC(コッド岬)からそっちにいくつかのメッセージが送られているのを知っているかい?」
だがコタムの言葉を遮るかのように、タイタニックからは次のようなメッセージを受信した。
「MYG(タイタニック)-すぐに来てくれ。氷山に衝突した。CQD。位置は北緯41度46分、西経50度14分。」
CQD−遭難信号。コタムは驚きのあまり次のように応答する。
「MPA(カルパチア)-船長に伝えようか?助けがいるか?」
「MYG(タイタニック)-あぁ。すぐに来てくれ。」

通信士コタムと当直のディーン一等航海士が、ロストロン船長の寝室に飛び込んできた時、船長も驚き困惑したが、説明を受けた後にロストロン船長は直ちに海図室に向かいタイタニックの位置を確認、すぐさま58海里(93km)離れたタイタニックの救助に向かうことを決意する。救助に必要な指示を次々を出し、非番の乗員も含めて総員で救出に向かったのだ。

最高速度を出すために、船の余分なエネルギーはすべてカット、乗員乗客の温水の供給も停止、暖房装置への供給も停止した。カルパチア自身もエンジンの不具合の危険性もあった中、機関長ジョセフはのカルパチアの最高速度14ノットを、17.5ノットまで速度を上げることに成功した。

18隻の救命ボートは全てがすぐに降下できるように吊り下げられ、医師の配置、暖かい飲み物や食べ物等の準備も整えられていった。舷門のすべてにはロープから椅子がつりさげられ負傷者を救助しやすいように、また小さな子供を吊り上げるためのキャンパス地の袋なども用意された。一方、客室係は乗客が客室から出回って船内に混乱が起きないように細心の注意を払い、13名の見張りが氷山に備えて配置された。航海士長ハッキンソンは午前二時半全ての準備が整ったことを報告した。


タイタニックより受信
午前1時35分「機関室に浸水」
午前1時45分「機関室、ボイラーまで浸水」

(午前2時10分 判別しがたい信号を受信)

およそ午前3時35分、割り出しをした位置に近づいたが、タイタニックらしきものはまだ発見できず。
午前4時、割り出しをした位置に到着、エンジン停止、そこには何も見えず。
前方に救命ボートから発せられた緑色の光をようやく発見、最初の救命ボート2号を救出。
このボートにはタイタニックの四等航海士ボックスホールが乗っていて彼が照明弾を持ち込み使用していたのだった。
夜が明けてロストロンやカルパチアの人々が目にしたのは、大小多くの氷山の間に、小さく浮かぶ救命ボートだった。

救命ボートと氷山のほかには、デッキチェアや救命胴衣が数個とコルク類が見えるだけで、海にはほとんど何もなかったと、ロストロンは述べている。

17艘のボートから705名を救助。
午前8時、後から来たカリフォルニアンに残りの捜索を要請し、カルパチアは事故現場からニューヨークへと向かった。



 

モーリー・ブラウン(マーガレット・ブラウン)らタイタニック生存者らは、ロストロン船長の勇気と行動力を称え、銀杯と金メダルを贈った(1912年5月29日)。彼は又、アメリカで最も権威のある名誉勲章を受章、またリバプール及びニューヨークのタイタニック事故災害協会からもゴールドメダルを授けられた。

ロストロンはカルパチアの後に、カロニア、カマニア、ルシタニアの船長を務め、第一次世界大戦中も海軍輸送船の船長として任務に就いた。1915年にはガリポリ戦の後、ロストロンはモーレタニアの船長に迎えられる。1916年アイバーニア、1917年に再びモーレタニア、以降、再度のモーレタニアを含めていくつもの船で指揮をとった。1918年には英国海軍予備員の船長、1919年には、大英帝国勲章(司令官)を、1926年には大英帝国勲章(司令官騎士・ナイトコマンダー)受章した。1928年、RMSべレンガリアの船長となった後、キューナード社のコモドア(主席船長)となる。

1931年5月に退役、彼はサウサンプトンのマスター・マリナーズクラブの代表となり、自叙伝「大海原からの帰還(Home from the Sea)」を執筆した。

1935年、彼が最も愛した船モーレタニアが廃艦のためスコットランドに出航することになった時、彼は同乗するとされていた。しかし、彼は悲しみをこらえきれずに乗船を拒否し、モーレタニアの最期の姿を桟橋から見送ることとなった。

1940年11月4日、ロストロンは肺炎のために亡くなった。彼はサウサンプトンのウェスト・エンド教会に埋葬された。彼の墓碑銘には 次のように記されている。



”RMSカルパチア船長、1912年4月15日、
SSタイタニックから706人の命を救った”


サー・アーサー・ヘンリー・ロストロン, KBE, RD, RNR

享年71歳。

 

 

<墓碑・ウェスト・エンド教会>

<モーリーブラウンから銀杯を受け取るロストロン船長>

<カルパチア>

 

 


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